「ベンチャー法務って、知財とか資金決済法がメインですよね?」 「民法なんて、司法試験の時以来、真剣に読んでいません」
もし法務担当者がこう言っていたら、その会社のリスク管理は砂上の楼閣かもしれません。 確かに、表面上のビジネスは「SaaS」や「AI」といった新しい言葉で語られます。しかし、その皮を一枚めくれば、そこにあるのは**「人と人との約束(契約)」であり、「過失と責任(不法行為)」**の世界です。
ベンチャー法務において、「民法の深い理解」とは条文を暗記していることではありません。 **「前例のないトラブルに直面した時、民法の思考プロセスを使って最適解を導き出せること」**です。 今回は、なぜ最先端の現場でこそ、基本法である民法が最強の武器になるのかを解説します。
初学者向けに、下記記事で、民法を解説していますので、適宜ご参照ください。

1. 民法は、法務における「OS(オペレーティングシステム)」だ
会社法や知的財産法、労働法といった特別法は、あくまで民法という土台の上に乗っている「アプリケーション」に過ぎません。
例えば、著作権のライセンス契約を結ぶ時。 「著作権法」を見れば、権利の内容は分かります。しかし、 「契約はいつ成立したのか?(申込みと承諾)」 「担当者に代理権はあったのか?(表見代理)」 「契約が無効になる事情はないか?(錯誤・詐欺)」 これらはすべて、民法の領域です。
OSがバグだらけでは、どんなに高性能なアプリ(先端法務知識)を入れても動きません。 ベンチャー法務では、複雑なスキームを組むことが多いですが、**「そもそも民法の原則に照らして、この論理は通るのか?」**という基礎体力が、契約書のクオリティを決定づけます。
【図解】法務における「アプリ」と「OS」の役割分担
ベンチャー・中小企業でよくある相談事例を元に、特別法と民法の守備範囲を整理しました。
| ビジネスシーン | アプリケーション(特別法)の視点 | OS(民法)の視点【ここが崩れると全て無効】 |
| 1. IT・著作権 アプリ開発やライセンス契約 | 【著作権法】 ・権利の帰属は誰か? ・翻案権や公衆送信権の処理は? | 【契約の成立・代理・意思表示】 ・契約はいつ成立したか?(申込みと承諾) ・担当者にサインする権限はあったか?(表見代理) ・仕様の認識にズレはないか?(錯誤・契約不適合) |
| 2. 人事・労務 問題社員の解雇・退職勧奨 | 【労働基準法・労働契約法】 ・解雇予告手当は支払ったか? ・解雇権濫用法理に触れないか? | 【不法行為・公序良俗】 ・退職強要がハラスメント(不法行為)になっていないか? ・「競業避止義務」の範囲が広すぎて無効ではないか?(公序良俗違反) |
| 3. M&A・出資 株式譲渡や増資の手続き | 【会社法】 ・株主総会決議は経たか? ・登記手続きに不備はないか? | 【詐欺・強迫・債務不履行】 ・デューデリジェンスで虚偽の説明はなかったか?(詐欺取消) ・表明保証違反があった場合、損害賠償はどうなるか?(債務不履行の特則) |
| 4. EC・Webサービス 利用規約の作成と同意 | 【特商法・消費者契約法】 ・クーリングオフの表記は? ・消費者に不利な条項はないか? | 【定型約款・行為能力】 ・「同意ボタン」だけで拘束力を持たせられるか?(定型約款の組入要件) ・未成年者が親のスマホで決済していないか?(制限行為能力者の取消) |
ベンチャー法務こそ「民法力」が試される
大企業のような「定型的な取引」であれば、過去の雛形(テンプレート)で対応できることも多いでしょう。しかし、ベンチャー企業は**「まだ世の中にないビジネス」**を作っています。
- 前例のない業務提携スキーム
- AIが生成した成果物の権利処理
- 暗号資産を用いた新しい資金調達
これらに挑むとき、そのまま使えるテンプレートは存在しません。その時、頼りになるのは**「そもそも民法の原則に照らして、この論理は通るのか?」**という基礎的な思考体力です。
複雑なスキームを組んだつもりでも、「要素の錯誤」で契約が無効になったり、「権限踰越」で会社に効果が帰属しなかったりすれば、ビジネスは一瞬で停止します。
2. 「契約書に書いていないこと」を埋める力
大手企業の取引では、分厚い契約書ですべてのリスクを網羅しようとします。 しかし、スピード重視のベンチャーでは、A4用紙1枚の覚書(MOU)だけでプロジェクトが走り出すこともあります。
ここで試されるのが、**「任意規定(デフォルトルール)」**の理解です。 「契約書に何も書いていない場合、民法ではどうなるか?」を即座に判断できるかどうかが重要です。
- 危険負担: 不可抗力で納品できなくなったら、代金はもらえるのか?(改正民法536条)
- 契約不適合責任: 納品物にバグがあったら、いつまで責任を負うのか?(民法562条以下)
「書いてないから分かりません」ではなく、**「書いてないということは、民法の原則通りこうなります。それが嫌なら、特約を入れましょう」**と提案できる。これがプロの法務です。
【図解】「契約書の空白」が生むリスクと対策
契約書に「何も書いていない」場合、民法の原則はどう作用するのか。そして、それを踏まえて法務はどう動くべきかを表にまとめました。
| シチュエーション | 契約書に書いていない場合(民法のデフォルトルール) | ベンチャー実務におけるリスク | プロの法務の提案(特約による上書き) |
| 1. 危険負担 地震や台風などの不可抗力で、納品ができなくなった。代金は? | 【債務者主義(改正民法536条1項)】 当事者双方の責任でない理由で履行不能になった場合、債権者(発注者)は履行を拒める。 つまり、ベンダーはお金を請求できない。 | ベンダー側の場合、開発コストが丸被りになる恐れがある。キャッシュフローが弱いベンチャーには致命傷になりうる。 | 【ベンダー側の場合】 「不可抗力による履行不能の場合でも、既に行った履行の割合に応じて報酬を請求できる」旨の条項を追加する。 |
| 2. 契約不適合責任 納品物にバグ(不具合)が見つかった。いつまで責任を負う? | 【通知期間の制限(民法566条)】 発注者が不適合を**「知った時から1年以内」**に通知すれば、責任を追及できる。 ※「引き渡しから」ではない点に注意。 | 発注者が不適合に気づくのが3年後であれば、そこから1年間(計4年間)も責任を負わされるリスクがある。いつまでも案件がクローズしない。 | 【ベンダー側の場合】 期間の起算点を「知った時」ではなく**「引渡し時」**に変え、期間も「6ヶ月」や「1年」に限定する条項を入れる。 |
| 3. 契約の解除 相手が支払いを遅延している。すぐに契約を切りたい。 | 【催告解除(民法541条)】 原則として、相当の期間を定めて**「催告(督促)」**をした後でなければ、解除できない。 いきなり解除はできないのが原則。 | 信頼関係が崩壊している相手に、わざわざ催告の手間をかける時間が惜しい。すぐに損切りして次の展開へ進みたい場合に足かせになる。 | 【債権者側の場合】 「支払いが遅延した場合、何らの催告も要せず、直ちに本契約を解除できる」という**無催告解除**の特約を入れる。 |
「特約」を入れるか、あえて「原則」で行くか
プロの法務は、民法の規定(デフォルト)を知り尽くした上で、あえて「書かない」という選択をすることもあります。
例えば、自社が「発注側(ユーザー)」であれば、契約不適合責任については契約書に細かい期間制限を書かず、民法の「知った時から1年」という有利な原則をそのまま適用させた方が良いケースもあります。
「書いていないこと」を「分からないこと」にしない。
この基礎体力が、企業の利益を守る盾となります。
3. 未知のビジネスモデルを「要件事実」で切る
ベンチャー企業は、まだ世の中にないサービスを作ります。当然、専用の法律(業法)など存在しないことも多々あります。 そんな時、拠り所になるのは民法の**「要件事実論」**的な思考です。
要件事実論とは、法的効果(権利の発生等)を導くために必要な具体的事実を特定し、その立証責任の所在を明らかにする理論体系です。
企業法務においても、「将来の紛争で勝つために、今いかなる条項(事実)を契約書に定義しておくべきか」を逆算して設計するための必須ツールであり、法的な「攻撃と防御」の構造を理解するための法律家の共通言語です。
例えば、「CtoCのスキルシェアサービス」でトラブルが起きたとします。 ユーザー間で喧嘩が起き、運営会社が訴えられました。
- 運営会社には、どのような注意義務があったのか?(善管注意義務)
- 運営会社の行為と、ユーザーの損害との間に因果関係はあるのか?(相当因果関係)
- それは予見可能だったのか?(予見可能性)
このように、フワッとしたトラブルを「要件」に分解し、「効果(損害賠償)」が発生するかを論理的に組み立てる力。 これこそが、民法学習で培われる「リーガルマインド」の正体であり、カオスなベンチャーの現場で最も頼りになるスキルです。

4. まとめ:民法を知る者は、ビジネスの「骨格」が見える
「民法の理解が深い」とは、六法全書を持ち歩くことではありません。 目の前のビジネススキームを見た瞬間に、 「あ、これは民法上の『委任』に近いな。だから善管注意義務がキーになる」 「これは『請負』と『売買』の混合契約だから、検収のタイミングを握らないと危ない」 というように、ビジネスの法的構造(骨格)が透けて見える状態のことです。
この透視能力さえあれば、どんなに新しいテクノロジーが出てきても、どんなに複雑なビジネスモデルでも、本質を見失うことはありません。
先端に行けば行くほど、基礎が問われる。 もしあなたが「もっと法的思考の足腰を鍛えたい」と感じているなら、ベンチャー法務の現場は、毎日が民法の実践講義となるはずです。



