「契約書の修正なら1時間で終わるのに、この従業員との面談はどうして3ヶ月も続くんだ……」
企業の法務担当者にとって、最も精神を削られる業務。それが**「労務トラブル対応」**です。 能力不足の社員(ローパフォーマー)、セクハラ・パワハラ問題、メンタルヘルス不調、SNSでの炎上……。
これらは、六法全書を引いても「正解」が載っていません。
法律という武器を使いつつ、最終的には「人と向き合い、落とし所を見つける」泥臭い交渉力が試されるからです。
今回は、法務担当者が避けては通れない、日常的な労務管理の要諦と、トラブル対応の実務について解説します。
1. なぜ、労務トラブルは「初動」ですべて決まるのか

労務問題、特に解雇やハラスメントに関する紛争において、裁判所や労働審判が最も重視するのは**「プロセス(手続きの正当性)」**です。
トラブルが起きてから慌てて弁護士に相談しても、 「注意指導したメールは残っていますか?」 「就業規則のどの条文に基づいて処分しましたか?」 と聞かれ、証拠がなければその時点で会社の負けが確定してしまいます。
法務担当者の役割は、平時から現場のマネージャーに**「記録を残す文化」**を植え付けることです。
「口頭で注意しました」は、法的には「何もしていない」のと同じです。この冷徹な事実を、どれだけ社内に浸透させられるかが勝負の分かれ目です。
【表:労務トラブルにおける「現場の初動」と「法的結末」の分岐点】
| 判断・行動のプロセス | 負ける初動(現場の「つもり」) | 勝てる初動(法務の「鉄則」) | 裁判所・労働審判での判定 |
| ① 指導の記録 | 「会議室で口頭で厳しく言った」 (メモやログを残していない) | 「メールやチャットで指導内容を送った」 (日時・内容・相手の返信を保存) | 記録がなければ**「指導した事実は存在しない」**と扱われる。「言った言わない」は会社不利に働く。 |
| ② 処分の根拠 | 「態度が悪い」「やる気がない」 (主観的な感情・印象) | 「就業規則 第〇条(服務規律)違反」 (客観的なルールとの照合) | 具体的根拠のない処分は、経営者の**「権利濫用」**として無効になり、未払い賃金の支払いを命じられる。 |
| ③ 段階的対応 | 我慢を重ねた末、ある日突然 **「明日から来なくていい(解雇)」**と言う。 | 「注意 → 研修 → 軽微な処分 → 解雇」 と段階を踏み、改善の機会を与える。 | 手続きの正当性(プロセス)が欠けているため、**「不当解雇」**が確定する。(解雇回避努力義務違反) |
2. 悩める「問題社員(ローパフォーマー)」への対応策

「成績が悪く、勤務態度も悪い社員をクビにしたい」 現場からは簡単に「解雇」という言葉が出てきますが、日本の労働法において解雇のハードルはエベレスト並みに高いです。
安易な解雇は、不当解雇訴訟(バックペイ+慰謝料)のリスクを招きます。
法務が主導すべきは、以下の2段階のプロセスです。
① 徹底した「改善指導(PIP)」と記録
いきなり辞めさせるのではなく、「改善計画書(PIP)」を用いて、具体的な目標と期限を設定し、指導を行います。 「あなたのここが足りないから、来月までにこう直してください」と伝え、それでも直らなかったという**客観的な事実(証拠)**を積み上げます。 これは、会社が「解雇回避努力」をしたという証明になります。
頑張れ」は指導ではない。裁判で勝てる「具体的改善プロセス(PIP)」
上司の「もっとやる気を出せ」「態度を直せ」といった精神論は、裁判では指導として認められません。
いつ、何を、どのレベルまで改善すべきかを数値や行動で示し、その結果を冷徹に記録し続ける必要があります。
| 指導対象(問題点) | ① ダメな指導例(感情・抽象的)※証拠にならず、パワハラリスク大 | ② 正しいPIP指導例(具体的・客観的)※「解雇回避努力」の証拠になる | 記録される「客観的事実」(裁判で提出する証拠) |
| 営業成績 (数字が悪い) | 「もっと気合いを入れて売ってこい!」 「やる気がないから売れないんだ」 (精神論・人格否定) | 「1日20件の架電を行い、訪問アポを週3件獲得すること」 「トークスクリプトの第3章を暗記し、ロールプレイングで合格すること」 (行動目標・数値目標) | 【未達成のログ】 「〇月〇日、架電数は5件にとどまり、目標の25%しか実行されなかった」という事実。 |
| 勤怠・遅刻 (ルーズ) | 「社会人としての自覚を持て!」 「みんなに迷惑がかかっているぞ」 (道徳的説教) | 「始業10分前の8:50までに出社し、タイムカードを打刻すること」 「遅延時は必ず8:30までに電話連絡を入れること」 (明確なルールの提示) | 【打刻データ】 「指導後も1ヶ月で8回の遅刻が発生し、事前連絡は1回のみであった」というデータ。 |
| ミス・品質 (雑な仕事) | 「もっと丁寧に確認しろ!」 「何回言ったらわかるんだ」 (注意のみ) | 「提出前に必ず『チェックリストA』を使用し、レ点を記入して添付すること」 「入力データのダブルチェックを徹底し、誤字率を0%にすること」 (プロセスの強制) | 【チェック漏れの現物】 「チェックリストの添付がなく、結果として3箇所の数値誤りがあった成果物」そのもの。 |
| 協調性・態度 (反抗的) | 「生意気な態度をとるな!」 「空気を読め」 (主観的な印象) | 「業務連絡には『はい』『いいえ』で即答すること」 「会議中はスマホを見ず、議事録を取ること」 「他部署への依頼は敬語(です・ます)を使うこと」 (観測可能な行動) | 【業務チャットログ】 「業務指示に対して無視をし、期限を過ぎても報告がなかったチャット履歴」のスクリーンショット。 |
法務の鉄則:PIPのゴールは「合意」と「記録」
PIPを行う際は、一方的に命令するのではなく、**「改善計画書」**という書面に落とし込み、本人に署名させることが重要です。
- 現状の課題: あなたはここが基準に達していない。
- 改善目標: 来月末までに、この数字を達成してください。
- 会社のサポート: そのために、上司が週1回面談します。
- 未達成の場合: 改善が見られない場合、降格や給与減額、配置転換などの可能性があります。
これに本人から「理解しました」とサインをもらうことで、後になって「そんなことは聞いていない」「会社が悪い」という言い逃れを封じます。
改善計画の内容が実践できていないことを理由に、再度、改善計画書を策定させ、これを何度か繰り返すことで、能力不足という既成事実を証拠化することが可能です。
解雇有効化の4つのハードル
裁判所が解雇を有効と認めるために必要な「4つの要素」と、法務担当者が現場に実行させるべき具体的なアクション(証拠作り)を整理しました。
【表:能力不足解雇を法的に成立させるための4つの必須要件】
| 必須要件(ハードル) | 具体的なアクションと証拠(法務の指示) | 法的な意味(裁判所の視点) |
| ① 能力不足の客観性 (主観ではないか?) | **「人事評価シート」や「目標達成率の推移表」**を用い、同グレードの他社員と比較して著しく劣ることを数値で示す。 | 上司の「なんとなく気に入らない」という恣意的な評価を排除し、**「雇用契約上の債務不履行」**であることを立証する。 |
| ② 指導・教育の実施 (改善の機会を与えたか?) | **「PIP(業務改善計画書)」**を運用し、具体的な課題と期限を設定して指導を行う。その際の面談記録やメールを残す。 | 会社には**「教育指導義務」**がある。指導もしないまま解雇することは、会社側の怠慢(権利濫用)とみなされる。 |
| ③ 配置転換の検討 (適材適所の努力をしたか?) | 営業がダメなら事務、事務がダメなら軽作業など、他部署への異動や降格を検討・打診し、その記録を残す。 | 解雇はあくまで**「最終手段」**でなければならない。他に能力を活かせる場所がないかを尽くしたか問われる。 |
| ④ 手続きの妥当性 (不意打ちではないか?) | 改善が見られない場合、就業規則に基づき**「戒告→減給→退職勧奨」**と段階を踏み、弁明の機会を与える。 | いきなりの解雇通告は無効になりやすい。対象者に**「予見可能性(このままだと解雇になるという認識)」**を与えていたかが重要。 |
② 「退職勧奨」という交渉術
法的に解雇が難しい場合、実務の落とし所は**「合意退職(退職勧奨)」**になります。 これはあくまで「お願い」であり、強制はできません。しかし、パッケージ(割増退職金)の提示や、会社に残ることのデメリット(キャリア上の不利益など)を冷静に説明し、合意形成を図ります。
この際、「追い出し部屋」のような違法な退職強要にならないラインを見極めるのが、法務の腕の見せ所です。
法務の役割は、感情的な「クビだ!」を封印し、ビジネスライクな「契約解除の合意形成」へと誘導することです。
「お願い」と「脅迫」の境界線:退職勧奨のセーフ・アウト判定表
退職勧奨とは、会社が従業員に「退職してくれませんか?」と申し込み、従業員が「承諾」することで成立する契約解除です。
最大のポイントは**「従業員にNoと言う自由があるか」**です。自由を奪えば、それは違法な強要となります。
| 交渉のフェーズ | ① 違法な「退職強要」(脅迫・パワハラ=慰謝料対象) | ② 適法な「退職勧奨」(交渉・説得=ビジネス) | 法務的なポイント・狙い(なぜOK/NGなのか) |
| 切り出し方 (入口のトーク) | 「お前はクビだ。明日から来るな」 ※解雇要件を満たしていないのに一方的に通告する。 | 「あなたのスキルと、今後会社が求める役割にミスマッチが生じている。別のキャリアを考えてみないか?」 ※あくまで相談として持ちかける。 | 【合意の前提】 「解雇」という言葉は絶対に使ってはいけません。あくまで「話し合い」のテーブルに着かせるのが目的です。 |
| 残留のデメリット (居座った場合) | 「辞めないなら、仕事を取り上げて倉庫番をさせるぞ」 ※いわゆる「追い出し部屋」や、能力に見合わない過小な要求を行う。 | 「このまま残っても、君に任せられるプロジェクトがなく、人事評価は下がり続けることになる。それは君のキャリアにとっても不幸ではないか?」 ※客観的な評価制度に基づく「未来の事実」を伝える。 | 【不利益の示唆】 意図的な嫌がらせは違法ですが、「成果が出ないなら評価も下がる」という当然の帰結を冷静に伝えることは、有効な説得材料です。 |
| 金銭的条件 (パッケージ提示) | 「自己都合退職届を書け。退職金は出さない」 ※会社都合であることを隠し、従業員に不利益な書類を強制的に書かせる。 | 「今月中に合意してくれるなら、会社都合退職として扱い、解決金として給与3ヶ月分を上乗せする(パッケージ)」 ※退職することへの「インセンティブ(対価)」を提示する。 | 【損して得取れ】 係争になれば数年分の給与(バックペイ)を払うリスクがあります。数ヶ月分で円満解決できるなら安い投資です。 |
| 頻度・時間 (面談の状況) | 「辞めると言うまで部屋から出さない」 ※長時間拘束したり、毎日執拗に面談を強要する。 | 「検討期間として1週間空けましょう。次回の面談は来週の水曜日です」 ※回数に上限を設け(目安は3回程度)、持ち帰って検討する自由を与える。 | 【自由意思の担保】 「監禁された」と言われないよう、適切なインターバルを置くことが、合意書の有効性を守ります。 |
「パッケージ(特別退職金)」という武器の使い方
多くの経営者は「辞めてもらうのになぜ金を払うんだ」と怒ります。しかし、法務はこう説得します。
- 裁判になった場合のコスト: 弁護士費用+敗訴時のバックペイ(年単位の給与)= 1,000万円以上のリスク。
- パッケージのコスト: 給与3〜6ヶ月分 = 150万〜300万円で確実な解決。
「手切れ金」と言うと聞こえは悪いですが、**「紛争リスクを買い取るための保険料」**としてパッケージを提示し、合意書(秘密保持条項付き)にサインをもらうのが、最もスマートな実務の落とし所です。
3. 組織を壊す「ハラスメント」の調査実務
ハラスメント通報があった時、法務担当者は「裁判官」のような中立性で調査を行う必要があります。
最も重要なのは、**「通報したことで不利益な扱いを受けない」**と被害者に約束し、守ることです。ここが揺らぐと、内部通報制度自体が機能不全に陥ります。
4. まとめ:労務経験は最強の「ポータブルスキル」
契約書や知財のスキルは、業界が変われば使えなくなることもあります(IT業界と建設業界では常識が違うなど)。 しかし、「人と組織」の問題は、どんな業界、どんな規模の会社に行っても必ず発生します。また、AIに代替される業務でもありません。
- 感情的になった相手を鎮める対話力
- 曖昧な状況から事実を整理するヒアリング力
- 訴訟リスクを見越した証拠保全力
労務トラブルという修羅場で培ったこれらのスキルは、法務担当者としてだけでなく、将来的にCHRO(最高人事責任者)や管理部門長を目指す上でも、最強の武器(ポータブルスキル)となります。
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